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ウオルターウェストン(1861~1940)足尾銅山をめぐる人々

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 ウオルターウエストン(WALTER WESTON) 英国の宣教師でケンブリッジ大学卒業し明治14年(1881)27歳の時、最初に来日し以来三度訪日して宣教師として伝道活動のかたわら日本の山岳に登り世界に紹介している。 日本アルプスの名ずけ親で日本山岳会の結成に尽力した。

 彼の写真コレクションは、イタリヤの山岳博物館に収められいるが平成11年、山岳誌「岳人」の創刊50周年を記念して「ウェストンの見た明治.大正の日本」写真展が東京都写真美術館で開催され、日本で初めて公開された94点の作品の中に足尾の写真があり、その写真がこの写真展の宣伝ポスターとして使用され我々の眼に入り感激した。 その写真は明治40年(1907)頃、深沢の入り口にあった栃本屋旅館の二階から赤倉精錬所を写したもので絵の具で着色されていた。

 作者が不明とのことですが、ウエストンは隣の日光,中禅寺訪れているのですが、足尾に来た記述がないので、この時期小野崎一徳は栃本屋旅館から約500メートルの赤倉で写真館を営業していたので彼の撮影によるものではないかと思われる。

WALTER WESTON

榎本武揚(1836~1908) 足尾銅山をめぐる人々

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 榎本武揚(ENOMOTO TAKEAKI) 明治維新の時榎本は33歳であった。 江戸を明け渡し幕臣達は駿府70万石で食っていかざる得なっかた。 榎本は広大な蝦夷地の荒野に幕臣達の生活の場を求めて新政府に嘆願書を出したが認められず、五稜郭で戦って敗れた。 しかし明治政府は榎本の力量を評価し、海軍卿(かいぐんきょう),逓信相、分相,外相、農商務相などの地位で遇した。

 幕臣の子として生まれ長崎海軍伝習所で学び、その後6年間オランダに留学し七ケ国語を理解した外国通科学者であった。 明治27年伊藤内閣では農商務大臣となり、この間日清戦争の戦時内閣のおいて、その重責を果たした。 基幹産業がなかった時代に「鉄は工業の母,護国の基礎」という言葉で鉄産業の強化を進め、彼の主張もあって釜石製鉄所や八幡製鉄所ができる。

 その時期に足尾銅山の鉱毒事件がおこる。 明治30年2月26日第10議会において田中正造は質問書を提出し、足尾銅山の鉱害防止を怠ってきた農商務省の怠慢を批判した。

 大臣であった榎本は同年3月23日現地を視察する。 明治政府の官僚として、はじめて榎本が鉱害現地を訪れたのである。 榎本は一日の鉱害現地視察から帰り、翌日足尾銅山鉱毒事件調査委員会の設置と足尾銅山の操業停止命令を出し,鉱毒事件の責任をとって農務商大臣を辞任した。 榎本62歳の時で以降官職にはついていない。

 榎本の辞任は足尾鉱毒問題を解決したのではなく一つの問題提起であり、近代日本の殖産体制下の急務と技術水準のギャップ、さらには鉱毒の実態を彼自身が一番良く知っていたのかもしれない。 当時の技術水準で汚泥や煙灰の処理が不可能なることを理解できる化学知識を持っている閣僚は他にいなかったであろう。

 榎本の下した命令は調査会で検討されて操業停止前に除害工事を施工するべきものとして明治30年5月27日37項目にわたる第3次予防工事命令書が古河足尾銅山に下った。

 それから百余年経過し、技術的な解決方法がされたが銅山の鉱脈も底をつき足尾銅山は昭和48年閉山した。

 

アーネスト・サトウ(ERNEST SATO)「1843-1929」足尾銅山をめぐる人々

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 アーネスト・サトウ(ERNEST SATO) 幕末から明治期にかけて日本の近代化に多大なな貢献をした英国の外交官。 日本の近代化に西洋文明を丸ごと導入することを提案し、日本政府はそれを採用することになり、鉱山における近代化のモデルのひとつになったのが足尾銅山である。

 明治19年の夏、サトウが足尾に来て当時の政財界の著名人と会合した記録がある。 足尾で会った人物は古河市兵衛が招待した陸奥宗光、後藤象二郎、渋沢栄一ら一行であった。

 陸奥宗光は明治政府の高官の中で欧化論者であり近代化推進派の先達であったのはサトウとの交流によるものかもしれない。 陸奥の次男、潤吉は後に古河市兵衛の養子になり米

国に留学し近代経営者として会社を引き継いだ。

 サトウは1843年にロンドンで生まれで1862年(文久2年)、19歳の時に来日し英国公使館の日本語通訳生となり明治2年に一時帰国、明治5年から明治15年までパークス公使の書記官となる。 その後、外国の任地を経て明治28年から33年までの6年間、日本公使の要職を務めた。 公的業務のかたわら日本の自然、地理、歴史、文化を欧米の人々にむかって紹介すると共に、日本近代化の導き役をつとめた。 

 彼は文筆家としても知られ、日本に関する著作を数多く残した。 中でも「一外交官の見た明示維新」は現在でも刊行されている。 またサトウは日本の別荘地開発や登山の先達で、特に日光中膳寺湖畔に英国公使館の別荘を創設し、それ以降、各国の大使館が湖畔に別荘を造り、夏の外交は日光で行はれた時期があったと言はれている。

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原 敬 (1856-1912) 足尾銅山をめぐる人々

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 原 敬(HARA TAKASHI)

 南部藩家老の家の次男として生まれ、藩校を出て海軍兵学校を受験するが失敗して明治9年に司法省学校に入学したが、退学して一時新聞記者になるが井上馨の世話で官界入りし、そこで陸奥宗光に認められて政界の道が開けて古河と接触持つにことになる。

陸奥宗光外務大臣の時に外務次官を勤め、明治30年官界を去って大阪毎日新聞社長になり、33年に立憲政友会の創立に参加し、35年に衆議院議員となた。 大正2年に政友会第3代の総裁、大正7年には総理大臣となる。 爵位を持たず衆議院に議席を有する首相の初めての出現は平民宰相と歓迎された。 しかし大正10年東京駅で暴漢に刺殺された。

 原敬35歳の時に陸奥農商大臣の秘書官となり,その関係から足尾との出会いが始まった。 明治38年4月、陸奥の次男・潤吉が古河市兵衛の養子になり、新会社古河鉱業会社の社長に就任するにあたり、陸 奥の長男.広告に頼まれて原啓は副社長として、病弱な社長を助けて2年間足尾を見ることになった。

志賀直道                足尾銅山をめぐる人々

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 志賀直道(SHIGA NAOMICHI) 

 小説の神様といわれた志賀直哉の祖父 で相馬藩6万石の奉行。 廃藩後、明治に於いては相馬家の家令として財政維持につとめ、古河市兵衛、渋沢栄一と共に足尾銅山の再開発に尽力しその利益で主家の財政挽回を図った。

渋沢栄一(SHIBUSAWA EIICHI) 足尾銅山をめぐる人々

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渋沢栄一(1840~1931)

 足尾銅山は明治12年(1879)頃、古河、渋沢、相馬の3者の出資で開発された。

栄一は武蔵榛沢の郷士の子で尊皇攘夷運動に加わり、その後一橋家に仕え慶応3年、徳秋昭武に随行して渡欧し西洋の新知識を学び、明治維新となって帰国し日本で始めての民間銀行、第一国立銀行を設立し、古河市兵衛は大株主となる。 しかし、明治7年新政府は豪商に与えていた特権を改めて、証拠金の納入と担保額の引き上げを突発的に決めたためスポンサーの豪商が危機におちいり、第一銀行の存続があやぶまれた。 その時、市兵衛は主家の小野組の倒産にもかかわらず個人担保まで提供して栄一の危機を救った。

陸奥宗光(mutsu munemitu) 足尾銅山をめぐる人々

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陸奥宗光(1844~1897)

先祖は伊達騒動で知られる仙台藩の伊達兵部で、その子孫は徳川御三家のひとつ紀州藩につかえた。

陸奥は勝海舟を師とし坂本竜馬とともに学び、海援隊に入って活躍した。

大政奉還後、兵庫県や神奈川県の知事を勤めたが、明治10年の西郷隆盛らが離反した西南戦争の時陸奥も政府転覆計画に加担したかどで、明治15年まで6年間東北の監獄に収監された。 その間、陸奥身をきずかって衣食等 の差し入れをしたのが古河市兵衛であった。

1883年(明治16年)出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
この費用は、一万一千円を要したとされるが、そのうち二千五百円は市兵衛が負担している。

明治維新後、陸奥は新政府に登用され、駐米大使、農商務相、外相など歴任し、次男は子供のいなかった古河市兵衛の養子に迎えられた。

 mutsu munemitu

陸奥 宗光と古河市兵衛

 

 

 

 

陸奥宗光(mutsu munemitu) 足尾銅山をめぐる人々

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陸奥宗光(1844~1897)

先祖は伊達騒動で知られる仙台藩の伊達兵部で、その子孫は徳川御三家のひとつ紀州藩につかえた。

陸奥は勝海舟を師とし坂本竜馬とともに学び、海援隊に入って活躍した。

大政奉還後、兵庫県や神奈川県の知事を勤めたが、明治10年の西郷隆盛らが離反した西南戦争の時陸奥も政府転覆計画に加担したかどで、明治15年まで6年間東北の監獄に収監された。 その間、陸奥身をきずかって衣食等 の差し入れをしたのが古河市兵衛であった。

1883年(明治16年)出獄を許され、伊藤博文の勧めもあってヨーロッパに留学する。
この費用は、一万一千円を要したとされるが、そのうち二千五百円は市兵衛が負担している。

明治維新後、陸奥は新政府に登用され、駐米大使、農商務相、外相など歴任し、次男は子供のいなかった古河市兵衛の養子に迎えられた。

 mutsu munemitu

陸奥 宗光と古河市兵衛

 

 

 

 

直利「なおり」<naori> 足尾熟語辞典

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直利「なおり」<naori>: 品質が高くて鉱脈の巾が広い鉱石。

明治13年(1880)5月古河市兵衛が足尾銅山の再開発を開始して最初に着手したのが鷹之巣坑で、明治14年5月に延長約120mを開鑿して神保樋の直利を掘り当てました。近代足尾銅山発展の先駆けとなったばしょです。

足尾鉄道の一世紀「写真集」 7月下旬発売

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足尾鉄道の一世紀「写真集」が7月下旬に発売される。

大正元年12月31日、大晦日の日に、足尾鉄道の桐生駅~足尾駅間がようやく開通した。

鉄道史敷設にかけた銅山王・古河市兵衛の夢は、実現までに24年もの歳月を必要としたのである。

そして、一世紀。

現実の「わたらせ渓谷鉄道」にいたる歴史を「近代産業遺産」と地域の視点からたどる。

●収録図版181点、挿図類14点。

●他に表3点、地図、年表、参考文献

●編著 書=小野崎敏

川嶋信行

古美門由佳一郎

●版型=A4変形〔297×225mm〕 189ページ、オール2色印刷

●定価=3990円「本体3800円+税」

足尾鉄道の一世紀