小滝にいって来ました。 小滝抗跡で紹介しましたが、冬は草木が枯れているので木々で隠れていた遺跡が顔を出してくれる絶好の季節でもあります。
夏は、生い茂る葉で全く見えませんでした。
枯れた木が、なにか物悲しさをあおります。
小滝にいって来ました。 小滝抗跡で紹介しましたが、冬は草木が枯れているので木々で隠れていた遺跡が顔を出してくれる絶好の季節でもあります。
夏は、生い茂る葉で全く見えませんでした。
枯れた木が、なにか物悲しさをあおります。
明治10(1887) 年、足尾銅山経営を始めた古河市兵衛は、小滝の旧抗(250m先までの堀止)を利用し、明治18年(1885年)7月にこの小滝抗を開抗し、わずか約9m掘り進んだ先に直利(鉱脈)を掘り当てます。
明治26年11月には本山抗(間かく3005m)を貫通し、次に立抗で通洞抗(間かく3276m)とも連絡するようになり備前楯山にむかって3抗から採鉱がすすめられました。これを機に、一つの集落として大いに栄えました。大正年間には、人口1万人余となりました。抗口、社宅や病院、学校、浴場、製錬所、選鉱所、浄水場、運動場などの跡が残っていて当時の人々の生活が伺えます。昭和29(1954)年に閉山となり、たちまちにして廃墟と化しました。今ではこの地に足を運ぶと当時の面影をしのぶことができます。

足尾町の映画館と劇場分布図
※印は古河系の劇場
※①「直利座」
昭和6年(1931)本山に建つ。
本造2階。定員1000名。
②「エビス座」
上間藤に在し、大正13年頃の「名山足尾」によると、青木興業部にて営業。定員1000名。閉山 時解体。
③「城崎座」

城崎正一郎氏 所蔵
座主城崎浅吉。大正6年(1917)上間藤に建つ。定員1200名。
④「いろは座」
大正13年、上間藤に建つ。定員数800名位の小屋。消失。
⑤「金田座」後改称「足尾劇場」
明治36年(1903)赤澤に建つ。設請負者仁平長吉氏による。座主は今市市相之道油屋、金田徳松・金田祐の金田興業部にて営業(大正2、5年の地図に掲載)。その後、工藤常之助氏の工藤興業部を経て、昭和6年頃、片山興業部へと移り、戦後は青木ムメ氏の青木興業部に移り足尾劇場と改称。定員階下800名、階上400名。平成5年4月1日解体。
⑥「末広劇場」
昭和24年、東映系映画館として赤澤に建設。座主木村泰一氏。オープン時に高倉健来館。定員500名位。昭和64年3月消失。
⑦「足尾館」後改称「足尾キネマ」
足尾で一番古いとされているが、明治35年(1902)松原に建つとある。調べは大正13年「名山足尾」の記録と赤倉の多喜屋主人、青木氏の大正8年頃の資料による。
昭和7年頃、松竹映画「時の氏神」の現代劇。主演夏川静江。昭和24年(1949)映画研究会、俗に「映研」時代は記憶に新しい。「映研」は鈴木秀夫氏と実弟の新勝等で運営され、当時の会員1200名、会費は月が40円。
昭和33年には、会員2300名の映画人口を有するほどになる。
昭和44年4月、火災消失。
※⑧「誠之館」
大正3年(1914)、足尾では最大の劇場。中才に木造2階建て。1587㎡、定員2000名。
戦後、歌舞伎菊五郎一行による上演は「三番叟・勧進帳」、新派劇水谷八重子による上演「父帰る」、大相撲東富士一行、柿沼サーカス、木下サーカス、東海林太郎歌手など。
昭和34年、火災消失。
⑨「小滝座」
いつごろ建ったのか。小滝文象に新嘉蔵が建てた。大正9年、火災消失。定員600名と聞く。
※「鉱盛座」
小滝に在す。昭和21年7月13日火災消失。昭和26年、小滝会館として再建。定員700名。
『足尾を語る会』会報 1994 第5号より抜粋
復刻版「風俗画報」第234号 足尾銅山図會
岩燕小滝の奇岩に図
復刻版「風俗画報」第234号 国書発行会 昭和51年9月10日発行より
明治18(1885)年に小滝抗が開かれてから、一つの集落として大いに栄えた「小滝」について御紹介しましょう。この小滝は、国道沿いの切幹から銀山平の国民宿舎「かじか荘」までの一帯をいいます。この小滝は銅山の衰退とともに、昭和29(1954)年に閉山となり、たちまちにして廃墟と化しました。今ではこの地に足を運ぶと当時の面影をしのぶことができます。抗口、社宅(畑尾、新長屋、広道路、爺ヶ沢、南夜半沢、北夜半沢、二号地、銀山平など)や病院、学校、浴場、製錬所、選鉱所、浄水場、運動場などの跡が残っていて当時の人々の生活が忍ばれます。
また、ここには戦時中に、朝鮮の人や中国の人が働いていた事を知ることができます。
この小滝に生を受けここで生活を送った人たちは、この地を離れた後、今でもこの小滝の中央部に「小滝の里」と刻まれた碑を建てて、定期的に集まってむかしを思い旧交をあたためています。

国民宿舎「かじか荘」外観

小滝の社宅跡

選鉱所跡

小滝の里碑
ガソリンカー
大正15年(昭和元年)8月から定時馬車に代わってガソリンカーが町内を走る事になった。乗車人数は、14~15人が定員、1日に赤沢~小滝間を5往復、客車は3t、長さ5m、幅2m、軌道幅は70cm、機関車は、当時のアメリカフォードエンジンを使っていた。時速10~15kmで、走っているガソリンカーに乗り降りができるくらいであった。
「目で見る足尾の百年」 第5集より 写真提供 新井常雄氏
馬車鉄道はこの年6月からガソリンカーと交代する。写真は、新梨子馬車鉄道基地(現在の中央運動公園の地)
「目で見る足尾の百年」 第5集より 写真提供 小島衣料店
ガソリンカーを、この頃「ガソリン」と略称したり発射時間が定まっていたので「定時」とも言っていた。
明治30年まで稼動していた小滝製煉所
小滝の里の正面に足尾銅山の小滝製錬所・選鉱所 跡があります。
小滝抗が開抗され、この地に製錬所(明治30年廃止)・選鉱所(大正9年廃止)が設けられた。
画像は、足尾町教育委員会・足尾町文化財調査委員会 発行 「足尾銅山の産業遺産」より
抗夫浴場跡の追加情報
小滝へいって来ました。 抗夫浴場跡で写真を紹介しました。
何故外側と内側に分かれているか不思議に思っていました。話を聞くところによると、外側の湯で汚れきった体を洗い流し、さっぱりしたところで内側の湯に入るそうです。社宅へ戻ると共同浴場が有りましたが抗夫は利用せず、女性や子供が主に利用したそうです。
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