足尾の情報発信web 【足尾銅山.net】

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坂口 祐(1878~1969) 足尾銅山をめぐる人々

Posted by: admin | Posted in: 足尾をめぐる人々

 坂口 祐(SAKAGUCHI TASUKU) 明治11年秋田県大湯で会津藩士中村富造の次男生まれた。 家が貧しく近くの銅山で働いていたが、18歳の時上京、職をもとめて歩いたが儘ならず、足尾銅山の坂田飯場で働いていたが、20歳で徴兵検査を受け日露戦争では弘前の騎兵隊の分隊長として従軍した。 帰還後、関東学院中等部に編入し明治42年第一高等学校(一高)に32歳で入学、東大に進み哲学科宗学を専攻、大正3年主席で卒業した、その時彼は37歳でした。 明治39年、足尾銅山の飯場の娘、坂田千恵子と結婚し姓を中村から坂田とする。

 大学時代にクリスチャンとなった坂田は大正8年キリスト教を建学の精神とする関東学院を創設し昭和24年には新制関東学院大学を設立した。

昭和4年に足尾に移築された「豊潤洞」の画像3

Posted by: admin | Posted in: 足尾の歴史・情報

柏木平にある豊潤洞は、もと明治の元勲、陸奥宗光の大磯にあった別荘です。

詳しくは、昭和4年(1929) 豊潤洞移築される。

豊潤堂が「山荘 豊潤堂」とし、一丸旅館の運営により宿泊施設として利用されていた時代のパンフレットを見つけました。

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パンフレットより

庭園 3000坪

収容人数 50名

浴室完備 総檜風呂

※団体様の場合ご予算に応じご相談申し上げます。

ご宿泊料金(税・サービス料込み) 1名様1泊2食付 1800円以上

 

かなりのおてごろな料金だったと聞いています。

歴史的価値のある「豊潤堂」が宿泊

施設として活用されていた事にも驚きました。

泊まってみたかったと改めてため息がでます。

※豊潤堂の資料が少ない中、T様ありがとうございます。

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昭和4年に足尾に移築された「豊潤洞」の画像2

Posted by: admin | Posted in: 足尾の歴史・情報

柏木平にある豊潤洞は、もと明治の元勲、陸奥宗光の大磯にあった別荘です。

詳しくは、昭和4年(1929) 豊潤洞移築される。

豊潤堂が「山荘 豊潤堂」とし、一丸旅館の運営により宿泊施設として利用されていた時代のパンフレットを見つけました。

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パンフレットより

慈悲減じ、鳥の啼く清閑な渓嬢にある、萱ぶき屋根の大きな邸宅が豊潤洞す。

もと明治の元勳陸奥宗光の別邸で湘南大磯でにあったものです。当時の内閣々僚の往

来繁度の揚でもあった。条約改正、下関講和条約の草案はこの一室から生まれました。

昭和初年解体しで足尾に運ばれ、柏木平の森に原型のまま建てられたものです。

藁ぶき屋根のしっとりした豊潤洞には心を傾けて掬む何かが存在いたします。

皆様の御来遊をお待ち申上げます。

昭和4年に足尾に移築された「豊潤洞」の画像1

Posted by: admin | Posted in: 未分類

柏木平にある豊潤洞は、もと明治の元勲、陸奥宗光の大磯にあった別荘です。

詳しくは、昭和4年(1929) 豊潤洞移築される。

豊潤堂が「山荘 豊潤堂」とし、一丸旅館の運営により宿泊施設として利用されていた時代のパンフレットを見つけました。

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パンフレットより

どこの温泉も最近は俗化されて本当の旅心にとけこめません.′

足尾の町の山奥をたずねてゆけば豊潤洞が待っています……

新しい憩のふる里を発見して、身も心もはづみます。

 

私が物心ついた時には、館の傷みもかなり進んでいました。出来るなら時代をこえて1度泊まって見たい!

榎本武揚(1836~1908) 足尾銅山をめぐる人々

Posted by: admin | Posted in: 足尾をめぐる人々

 榎本武揚(ENOMOTO TAKEAKI) 明治維新の時榎本は33歳であった。 江戸を明け渡し幕臣達は駿府70万石で食っていかざる得なっかた。 榎本は広大な蝦夷地の荒野に幕臣達の生活の場を求めて新政府に嘆願書を出したが認められず、五稜郭で戦って敗れた。 しかし明治政府は榎本の力量を評価し、海軍卿(かいぐんきょう),逓信相、分相,外相、農商務相などの地位で遇した。

 幕臣の子として生まれ長崎海軍伝習所で学び、その後6年間オランダに留学し七ケ国語を理解した外国通科学者であった。 明治27年伊藤内閣では農商務大臣となり、この間日清戦争の戦時内閣のおいて、その重責を果たした。 基幹産業がなかった時代に「鉄は工業の母,護国の基礎」という言葉で鉄産業の強化を進め、彼の主張もあって釜石製鉄所や八幡製鉄所ができる。

 その時期に足尾銅山の鉱毒事件がおこる。 明治30年2月26日第10議会において田中正造は質問書を提出し、足尾銅山の鉱害防止を怠ってきた農商務省の怠慢を批判した。

 大臣であった榎本は同年3月23日現地を視察する。 明治政府の官僚として、はじめて榎本が鉱害現地を訪れたのである。 榎本は一日の鉱害現地視察から帰り、翌日足尾銅山鉱毒事件調査委員会の設置と足尾銅山の操業停止命令を出し,鉱毒事件の責任をとって農務商大臣を辞任した。 榎本62歳の時で以降官職にはついていない。

 榎本の辞任は足尾鉱毒問題を解決したのではなく一つの問題提起であり、近代日本の殖産体制下の急務と技術水準のギャップ、さらには鉱毒の実態を彼自身が一番良く知っていたのかもしれない。 当時の技術水準で汚泥や煙灰の処理が不可能なることを理解できる化学知識を持っている閣僚は他にいなかったであろう。

 榎本の下した命令は調査会で検討されて操業停止前に除害工事を施工するべきものとして明治30年5月27日37項目にわたる第3次予防工事命令書が古河足尾銅山に下った。

 それから百余年経過し、技術的な解決方法がされたが銅山の鉱脈も底をつき足尾銅山は昭和48年閉山した。

 

武田久吉<TAKEDA HISAKICHI>(1884~1972) 足尾をめぐる人々

Posted by: admin | Posted in: 足尾をめぐる人々

 武田久吉(TAKEDA  HISAKICHI)  アーネスト サトウには日本人妻、武田兼がいた。 そのニ男一女の次男として1884年(明治17年)に生まれ府立一中、東京外語を出て父の母国英国に留学し、帰国後京大、九大、北大などで植物学を講じ、植物学の権威で日本山岳会の創立者の一人。子供の頃から父サトウに連れられて山に出かけ登山や植物に関心をもつようになった。 久吉は「私の登山史は、日光の山から始まったと言ってもよい」と編著「尾瀬と日光」の中で書き、足尾にも度々訪れている。 しかし足尾の煙毒で山が破壊されたことを嘆き足尾の山に入らなくなった言われいます。

 森林植物学を専攻した久吉は戦後昭和35年に日本自然保護協会を設立するなどエコロジストの草分けとして知られている。 昭和46年88歳の著作「明治の山旅」のはしがきの中で「わが国国内凡百の山岳は、幾多の遊戯登山大衆の脚下に踏みにじられて、かてて加えて、観光公害の犠牲になり、昔日には到る所で見られた、けがされない自然美は、日々に稀薄となって、今やそれはなかなか求めべくもないと言ったならば、誇張であろうか。と企業のみならず人間についても自然破壊に警告をしている。

 

提示馬車<teijibasya> 足尾熟語辞書

Posted by: admin | Posted in: 足尾熟語辞典

提示馬車<teijibasya> : 足尾銅山鉱業所が従業員用に運行した馬車。

毎日定時に運行したのでこの名が起こった。大正15年(1926年)にはガソリン車変わって、昭和28年(1953)東武バス運行によりガソリン車も廃止された。

足尾に生きたひとびとより 著:村上安正

日光市第2回 足尾石切節 全国大会

Posted by: admin | Posted in: 未分類

日光市が合併して第2回目となる「足尾石切節」全国大会がかいさいされる。

昨年第1回目の「足尾石刀節」全国大会は、8月19日が開催されました。

参加エントリー188名が石刀節を熱唱しましが、本年度はどのくらいの参加者が自慢の歌声を奏でるのか楽しみです。

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足尾石刀(せっと)節コンクール 復活のストーリー!

石刀節は、採掘作業の際に生まれた民謡で、足尾銅山の坑夫が、つらさや孤独感を慰めるために歌ったものが、足尾石刀節。昭和48年の閉山と共に、足尾石刀節も消えつつありました。。そんな時に、民謡歌手の岡田貢峰さんが、民謡のコンクールで全国一に輝いた事をきっかけに、「足尾石刀節を日本一にする会」ができ、これまで10年にわたり、コンクールを行なってきました。しかし、赤字続きだった事もあり、市町村合併を機に、昨年7月で終了してしました。しかし、有志により千人以上の署名を集め、2007年第一回を開催する事にりました。

 

日光の観光スポット足尾歴史を案内する写真館四代目のブログ

2007年第一回 足尾石刀節 全国大会

足尾における日本初の技術

Posted by: admin | Posted in: 足尾の情報

足尾歴史館のパンフレットが新しく変わりました。

足尾における日本初の技術が紹介されています。リストの内容は、多くの方に知っていただきたい情報であり、私も再認識し誇りに思いたい内容です。

足尾における日本初の技術

技術・文化名 発足年 説明 所在場所
銅山電話架設 1886年5月(明治19) エジソン式 掛水
水力発電所 1890年12月(明治23) 足尾銅山の産業革命の始まり 上間藤
索道(貨物用ロープウェイ) 1890年12月(明治23) 足尾銅山の輸送力増大 各地区
鉄橋「古河橋」 1890年11月(明治23) 火に強く頑丈な橋 赤倉
水套式溶鉱炉 1890年11月(明治23) 足尾銅山の溶鉱量の増大 本山
電気鉄道 1891年(明治24) 足尾銅山の輸送力増大 本山抗
足尾式削岩機 1914年頃(大正3) 手持ち式の小型 下間藤
電気集塵器 1915年(大正4) 排煙除害 本山
電動のこぎり 1924年頃(大正13) 製材所用 銀山平
自熔製錬法 1956年(昭和31) 無燃料、コークス、石炭、電気不要,無公害 本山

 

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昭和30年に撮影した乾板(ガラスのネガ)が見つかりました。

Posted by: Onozaki | Posted in: 足尾の歴史・情報

サイズは4切サイズ(横30.5×楯25.4)×2枚

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上記は、通洞病院での撮影 昭和28年頃 撮影

ガラスのネガ2.jpg

栃木県立足尾高等学校 昭和30年撮影